もし、適切に今の日本がダイジェストでどのように成り立っているのかを説明できなかったとしたら、我々日本人はそのようなコミュニケーションを通じて「ただのものまねのうまいサル」だと思われてもおかしくないですね。日本の独自性をコンパクトに語れる必要があります。その背景として、ライバル諸国の発展により、かつて日本の技術でリードしていた多くの製造ノウハウと量産化のビジネススキームが多く他国に流出しており「ものまねのうまいサルだった」と、サルすら過去形になり兼ねない状況があります。
かつて日本人はビジネスの供給側としても需要側として「わずかなの差異を許しがたい品質主義視点」「おもてなしに現れる顧客第一主義的視点」が特徴的でその競争力をもって世界が脅威の目でみていました。トヨタがアメリカのGMを倒産迄追い込んだ事例などがわかりやすいですね。しかし今の我々はそのような日本の競争力で世界で苦戦している背景があります。「営業力」「影響力」「牽制力」「マーケティング力」「独自性創造力」「ビジョン力」「認知力」などなどで世界の技術が均一化してきた流れで「品質主義」「顧客第一主義」もパターン化され、勢いのある諸外国に負けています。現代日本が始まった起点としてはやはり明治維新が大きな起点でしょう。なんといっても「開国」によって武家政治体制を近代的な資本主義化したターニングポイント。
構成要素を分解してみましょう。日本は所謂文明国ではありません。文明という言葉の定義?ということなのですが西洋が考える4大文明に属しませんので、その定義の外で江戸時代に様々なな学者や宗教家によって西欧諸国の支配から逃れるために仏教や儒教の読みこなしから始まり本居宣長の古事記伝は、連立方程式のように漢字から意味を剥がして音による解釈を改めた視点から神道を分解解釈し独自の発展を遂げた文化として明らかになっていき、日本の本来像への探求をはじめました。そういったものごとの見方にポイントがあります。
世界の文明と渡り合うために、そのような努力と近代的な批判や分析が可能な古学、国学(のちの蘭学、洋楽に発展した学問体系)、水戸学などが江戸時代にありました。遡ると江戸幕府は平安から続いていた権門体制に変わって武家政権の中心に「皇帝への服従は大事です」の朱子学を取り入れていました。この朱子学の影響の一部で「争いは良くない」体な思想で徳川300年は平和が続いたのは事実です。しかし朱子学だけでは近代化する要素がなかったようですね。伊藤仁斎、荻生徂徠らを中心に朱子学の中からも朱子学由来の「宋が衰退してきているぞ」、という情報を得てその分析を始め、仁斎や徂徠による闇斎学、垂加神道などが発生し、それはのちの後期水戸学となり、尊王思想、尊皇攘夷思想となります。
この時に重要なことは当時江戸時代の日本は世界一の識字率を誇る状況であったこと。+学問をただ使うために覚える・触れる、という触れ方ではなく、その学問の読み方自体を学ぶという根本的態度であり、方法論があったのです。これが文明開化、近代化を支えており、その高い教養がある人物が日本人初のアメリカ帰化の第一号となったジョセフ・彦のような勇敢かつ聡明な、かつ当時のアメリカ経済の第一人者である(現代の商工会議所のような経営者団体の初代会頭の)サンダース氏らを関心させ、アメリカの学校を卒業し若者の熱意と独自の視線をもって帰国します。「日本には海外の目線が圧倒的に不足している」この思いによって外の目線の具現化、「世界新聞」の発行を実現します。
・何故外の目線をそれだけ取り入れることができたのか?
・何故倒幕のキーである吉田松陰の松下村塾には「華夷の弁」の教えが合ったのか?
・坂本龍馬の師でもある勝海舟。彼らが直接諸外国の動向や状況を話しを聞くことのできる人物としてブルック大尉(福沢諭吉、ジョン万次郎と共に航海)と会えたのは何故か?
・ブルック大尉が武士道的精神を身に着けていたのはなぜか?
これらは偶然では片付きません。当時の伊藤博文や桂小五郎らが世界についての教養指南役として師事したジョセフ・ヒコは新聞を発行しており、その購読者は4人, それ以外は売れないので無料配布だったようだが、間違いなく現代日本へつながる日本生き残り戦略に必要な世界地図を描くために大きなきっかけになっています。現代でこそ注目されているイデオロギーを中継しない教育体系「学び方の学び方」は、江戸の時代の庶民に結構浸透していた、らしいです。だからこそ、産まれてまもなく両親と死別し、偶然乗った旅船が難破してアメリカの船に拾われて航海するうちに英語を覚えてしまった彦のような人物…そもそもそのような教育以前の人間的吸収力の高い「学ぶ意味を創造性に開花させる力」をもち、識力豊かな人間の育ち、産まれる豊かな土壌があった事が証明できます。
世界の仕組みも個人の人生も、個人同士の関係性も人間のやることの集積です。その背景に、あなたは人間としてどのような厚みと深みと文明、文化への理解を持っているのか?どう感じて、どう生きようとしているのか?それが共感のできるものであったら、異文化圏でもパートナーとして信頼と尊敬を得られるはずです。その視点で、普段から自国に敬意を払って学んだり関心を持ってふれている事が我々が日本人として外国の方と触れた時に未来を広げる言葉となるはずです。
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本居宣長が何故古事記伝を着手に至ったのか?
漢字以前の世界(中国(唐、宋)文化フィルター以前の世界)、倫理観への興味があった。
何故興味があったのか?
彼の生きた時代の武家政権に対して疑問があった。武家政権以前の世界はどうなっていたのか?古典に触れてみると、どうやら法があり、宗教があり、天皇の存在がありました。これは唐の時代に仏教や学問と一緒に入ってきた儒教が教える「忠」ではない。おのずからなる「忠」。それは古典を分析していくともっと色々あるのではないか?そう考えたようです。そして彼は「百人一首」、「源氏物語」など触れました。そこには武士もおらず、朱子学もなく、男女は詩をよみ、自由に交流していた。イデオロギーがなかった。彼の提唱した国学は日本人に掛かっていた「江戸幕府に仕えることだけ考えれば良いよ的限定要素」「バイアス要素」を中和、解除するための試みだった。
本居宣長が抱いたその感性、姿勢はいかにしてあり得たのか?その部分こそが世界も注目する現存する興味深く味わい深い日本文化です。
※(その後江戸を通じて)現代日本に通じる美的感覚の代表格として
=東山文化
├水墨_雪舟で有名な「天橋立図」など
├大和絵_平安から続く日本絵、手元資料より添付。
├能_観阿弥、世阿弥が発展させる。更に現代でいうコーティング的なプレイヤーとしての処世術、技術論的、芸術論「風姿花伝」を残す。
├建築_書院造(昔ながらの日本家屋にもられる接待部屋的な、波平の部屋?)
├庭園_有名な「枯山水」
├文学_「御伽草子」「連歌」など
その他茶室など
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つまり、彼はその能力を注目されますが、我々で例えると現代の当たり前の便利やあらゆる常識を、場所や時間を変える視点で様々な研究、興味から行動を行って「問い」を持つ事。そして何かの課題解決に結びつけること。発明家などのみられる、その行動に本質があります。そこには品質主義と繋がる美しさへの普遍化欲求、衝動に近い抑えがたい感情と繋がる計算力があります。元号という世界無一無二のシステム。天皇制と言うシステム。その背景と成り立ちを、この機会に考えてみたいですね。