思い出や感情処理がない脳を持つ人種がいたとする

処理のメソッドとしてはクラス分けのみの効率化処理に対して扁桃体や辺縁系など始祖的な人間の初期生理現象を司る脳の部位と直結するような大事な部分である。これが機能しない、ということ。分子物質的には記憶の分子はあるが、それを解釈するトランスファーがない、ということ。思考はしているが思想なき思考ということ。

その場合、プリンストン大学工学部得意現象研究所のロバート・ジャン氏による「「心と機械のつながりの研究」によると、いわゆるパチンコ台の前に人を座らせての実験で明らかになった人間と機械は 直接対話ができる、という現象についての準拠するとすれば人がいちいち何かにつけて心が反応したり、思ったり、感じたりすること。

これによってパチンコ玉の流れ方が変化する。いわゆる人によって機械の制御しているはずの、玉の流れ方が変化することについて概念以前の世界のあとに、人は感情を巡らしていたのが定説であったが、逆で、人が熱くなれば成る程、何かを思えば思うほど何かが起きる。だから、例えば松岡修造が熱苦しいと言われる理由はきっとそれ自体振り子が人らしくあるために必要な破壊かもしれない。

横軸にどこまでも伸びた世界。これからは縦に光や音を使ってのソリューションを追求していく世界になっていくのだろう。そのために、感情なき世界が、人がどうあれば世界を続けられるのかを一度技術と心得(ハイテクとハイタッチ)の振り子が人あらずに振り切れる事すらも必要な研究かもしれない。それには冒頭のクラスタ処理のみで物事のインプットを単純な適応処理のみ目指したインターフェイスを一度目指す、それも必要性があるような気がする。

シートン動物記のロボとブランカの物語や、ろじんの狂人日記を読むとそういう気持ちになる。

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