東山文化は室町時代という生き物が足利義政というドライバ(レンズ)を通じて究極に荒くれ状態だった当時の乱世の中に見出された刹那と啐啄の美意識をまとってショーケース化された結果である。
結果はいつでも明確化され、唯一の価値として認めてもらえる。しかし現実はそれ以上に計り知れなく、無限でそれ以上にインフレしている。それ故に計り知れない。その事は正しい判断や選択などはじめからない事を我々に教えてくれる。
我々が本来体験すべきはその無限に計り知れない源泉の「認知」方法であり、事実として描画された「結果」とは別の筈である。
この知的資本に対してのアプローチと自分へのインプットの方法を識別の分知が、想像力、創造力を強くする「日本文化の美しさ」という。
未来にもずっと続いて欲しいという心の平穏があるような心理状態。それが、「侘び寂び」文化として1映し出したのかもしれない。その時代背景、足利幕府が南北朝を統一し、足利氏の跡取り争いから日本史上の内戦としてはかなり大規模で有名な「応仁の乱」が発生した。
戦乱の世だったらしい。義政は銀閣寺を建てて、そこで引きこもりをしていた。(これも現代に分散発生したニート現象と近しいものを感じる。)そこで、書画、茶碗、茶の湯といった活動に凝りに凝った。このとき生まれた雰囲気の事を 幽玄、侘び寂び という。
冒頭に話は戻るが、それは一つの結果であり原因から理解できる自らというインターフェースを整えてからでないと殆どおうむ返しを覚える程度だと理解する事。東山文化であれば、足利義政というその表現者というドライバをよく理解する事。
そしてそのドライバが動作したOS=環境の要因をよく理解する事。