売れることと、手元に資金が残ることはまた別の話

財務と勘定が財布と勘定の違いと体感し、実は人体の骨格の正しさと同じく経営も骨の位置が決まっている。

根本はベニスの商人が考えた資本主義の基礎、簿記、複式簿記、ストックとフローといった会計方法を骨格の基準で、「経済」というアプリケーションはそのミドルウェアに乗っかっている計算式だととらえる、そこに世の中を俯瞰する観点がある。

この会計方式の発展には11世紀~13世紀のヨーロッパでの十字軍の遠征、1492年イタリアの発展とアメリカ大陸の発見など、簿記が活躍している。(ルカ・パチリオがコロンブスに旅費を貸し付けた)

余談だが更にこの計算原理にはOSがあり、バビロニアからシュメールまで原型はさかのぼり、そのBIOSはというと、実はアジアのある国に到達する。

スポットの大型案件頼みで、小型の継続的な案件受注が苦手だと流れが変わった時に大きいな恐竜が生き残れなかったように、変化に対応できない弱さに転じる。

すなわち、実は会社組織のコミットこそ多様性と専門的な約束という矛盾を内包する。

すなわち、先輩、上司、リーダー以上の経営層、または家庭では親はその背反を常に抱きしめながら理想を現実で、あるいは現実を理想で、ハンドリングする。

大きな仕事、国絡みの仕事、大きなブランドによる力、売上幅の占める割合の大きな仕事というのは特定のクライアントや特定の業種と方法論に依存した強さがあるということとも取れる。例えば以下の例はインターネット始まって以来の速さと市場消失の炎上劇を感じた事件だった(タイピング時点2018.11.25で現在進行系)http://blog.esuteru.com/archives/9226225.html

環境が市場であり、市場による恩恵で自分が存在しており、それを更新することはできても、あくまで我々も経営自体を自分でやれているようでやれていない感覚というものがある。自ら考え出したような気がしても、それらは全体の一部であるということを忘れてはならない。

それらは認知されるだけの人間への文明的投資や沢山の偶然の積み重なりに過ぎない。諸先輩、ご先祖の流れの中で生を授かったに過ぎない。積み重なりは、個々の意識をどれだけの個々が所有する世界のゆらぎの中で自分以外の他人のゆらぎに干渉し、干渉を受けることを決定するか?

〇〇より大きくなるだとか、いくら稼ぐ、ということはそれ自体はある時点までは健全だが行き過ぎると目的と手段の境目を見失う。宇宙の構造と脳の構造にも、それぞれブラックホール、扁桃体といった キャラクターが存在しリセットに近い役割が自然に存在していることから考える必要がある。

認知と事実、自分は何者なのか?我々は何者なのか?これを見誤ると その干渉の結果は悪影響になりかねないということ。

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