西洋と東洋の戦略上の差異

例えば人物への注目の仕方。
アメリカ人は背景から切り離して特定の人物に注意を向ける一方で、アジア人は背景や背景と中心人物の関係に注意を向ける。
ヨーロッパやアングロサクソン系のグローバル企業のマネージャー達は、一般的にこのアメリカ風の特定的な思考をするようだ。

これは彼らが学ぶ文化の基本がアリストテレスにある事からざっくり推理できる。アリストテレスは「ある物事を環境から取り出して、個別に分析できる」という考え方が基本にある。dock的というか、カプセル化できるオブジェクト指向のプログラミングに似ている。

住所の書き方でもわかりやすい。
西洋人はミクロからマクロへ。(番地、地名、区、市、県)
中国人や日本人はマクロからミクロへ。(県、市、区、地名、番地)

西洋がアリストテレスなら、中国、日本は仏教や儒教に土着と自然が混じった道教である。道教は包括的で、場が行動に影響を与えると信じられている。
様々な要素がお互いに影響を与えながら宇宙の調和が保たれている、と言う考え方。ただし、中国では現在、道教よりも勝利戦略としての儒教の支配の為の教えの部分、が全面にでているようだ。

西洋は、局所的かつやり方がワンパターンな場合にとても強い。加えてその局所が局所のママ拡大した場合。ある特定の問題解決でその前後周辺を考えないアプローチであれば情報も知恵もスキームも洗練され非常に明瞭である。

これに対して、東洋は全体包括的なアプローチをとる。影響、配慮、相互を全てに取り入れる考えである。即ちこれは時間がかかる。そのため忍耐であるとか、家族であるとか、自然愛(アニミズム)であるとかがトータルで道という思想で演繹的に構築される。日本人的に感じ取れる部分としては、中国では失われた儒教の良質な部分(恩、考)や、飛鳥時代から現代まで続く新嘗祭等が抽象的でわかりやすく、今でも文化に残る。

それでは東洋的な発想をどう活用しようか、と先手を狙って中国とインドに経済突破させようとしているのがアメリカ。

(これの詳細は
表「世界時流理解のすすめ」
裏「環境分析」
で詳しくは説明する)

東洋人に対してアプローチする必要があるときは全体像を理解させる説明から入るほうが実は近道である。(西洋から東洋への経済、人間社会の在り方、情報の消費の仕方のサイクルの切り替えは始まっている。)西洋型は結論をまず伝えるアプローチは量産型かつ速度重視の時代にはピッタリだった。時流的にこれにはあらゆる森羅万象耐えきれなくなっている。イタリアモデルを考えるとよく分かる。

サイクル理論と合わせて理解するとより良いかもしれない。

ヒント:日本の戦後、哲学的な部分はアメリカ由来のハーバード系メソッドがメインコンテンツとして幅を効かせ生き残った。
仕方がない。それで経済的にまずは勝利しないことには独立自体が危うかったのだから。

そういうわけで東洋的な良さ、それを一度捨てている。そこに至るまでの間に様々な環境要因が絡んで進歩主義、共産主義が大きなうねりで入ってきた為、日本の伝統は一度葬られたに近い扱いをうけ、日本の独立を守る為のエリート層の努力は、その流れに翻弄され大きな迂回をしている。しかしこれも国を作品と考えた場合には、完成度を増す為には必要な失敗だったのかも知れない。

なぜなら失敗はアートで成功はサイエンス。これを繰り返す事で一つの叡智になる。これが鏡(アート)、剣(サイエンス)、勾玉(叡智)なのではないか。それを古事記などは伝えている気がする。

なぜならそれでも我々は生きているし、日本の伝統も我々の叡智がやっと追いついてきてその本質や生きることへの活用法がこの時代の転換点の際のタイミングで分かり始めたのだから。

一度自分の立場をすて、身分をすて、命の危険も顧みず、更には思想すら脱ぎ捨て繋いで生かされた命だという自覚から始める。大きすぎるビジョンや完成図は、その視野がある者にしか観ることができない。その共有がされていない者にはドットの荒すぎる邪魔な壁でしかないように。

※注意点
我々が今いる日本の環境は東洋であって東洋ではない(包括的ではない)し、
かといって西洋でもない(特定的でもない)。

だが、日本企業で必ず長期持続している会社、働きがいのある会社というのは
特定的な結果や満足度ではなくて包括的な評価を得ている企業だ。
日本人はバランス型だし、基本的には信頼しあいながら農耕型で狭い土地を有効に活かしてお互い様で生きてきた。

だから我々日本人が気をつけないといけないのは実は、アウトプットは特定的に(アリストテレス的に)おこなうべきである。これは業者やチームをマネジメントするに当たって、要求を個別に事前にかなり具体的にしたほうが良い反応が返ってくるという”世界共有の当たり前の常識”があって、これを 言語やコミュニケーションといった部分での技術の鍛錬を怠ってきた我々日本人がやろうとすると、自分の文化や分かる人だけにしかわからない言葉でやり取りをしようとしてトラブルが起きるからである。

オタク文化と言う言葉は、これのことである。生き物は全体が見えていない中で進歩していくと、完成予想図へ向けての努力ではなくて、細部への精巧化、進化を始める。
その為、相手が何を求めていてそれに対して汎用的な回答をだしたり、汎用的な問いかけができるか?これが弱くなる。無くなる、といったほうがよいかもしれない。しかし、充分細かな努力をしたあとは、そのアウトプット技術、それこそが重要なのである。

逆にインプットや管理という部分では包括的に(道教的に、神道的に)行う心がけが重要である。受け入れる、相手の事を慮る、鑑みるということである。

これら実際に哲学や文化理解を仕事でどのように活かすかの教育の場がないことが大きな問題であり、それはその疑問が生まれていないことを疑問に思って口コミしていく当たり前をこれからつくらないといけない。なにより何かを期待してはいけない。自分がすぐにその場で始めるという

「その場その場で絵を書いてゆけば良い by高杉晋作」
という閉塞を突破する場合にはある種の楽天的感覚を信念にのみ委ねる、その人間の数が重要になる。

日本人の国際化不足問題の本質はこの部分であって、英語力ではない。この基本がない状態で英語だけ学ぶということこそが、非常に危険である。その基本と理由と原因分解がはっきりした上で道具として必要な部分だけ結果的に英語を学ぶ、というのなら分かる。

逆にいうと、英語がどうしても苦手なのであればせめてこのインプットとアウトプットとそこからノウハウを叡智化しちゃんとした日本人を目指す時間を作ったほうがよい。狭い世界の知り合いとしか仕事ができない状態をいつでも捨てれる強さを日本語で日本人として所有している方が逆にその身近な仲間やオタク文化にとっても発展や良い流れをもたらすはずである。それらのマイナス要素に見える事も、全て陰陽の法則で繰り返しの中の母なのだから。

<多文化多様性目線を重要視する理由>
長期的な組織の智力を醸造することが目的。
長期的な戦略への種まきを実施する戦略である。

その為に異文化間での情報や価値の差異をつかったイノベーションが最もビジネスになりやすいことに目をつけている。その前提で多国籍すぎる状態では文化の衝突によって生じる調整に非常に時間がかかる。

この逆説へのヘッジとしてこれを二国間に限定する手法を取る。
その為の実行戦略の設計も1国に限定する。

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