価値

よく、「自分の市場価値」という言葉がある。しかしこの言葉は本当に存在しているのだろうか?本当に自分に市場価値なんてものがそもそも存在していると期待して話を進めてもよい類のテーマなのだろうか。

自分というからにはその意味を分解すると「自らを分かっている」、と書くが自らという存在の定義はそもそも外観をもって接されて言葉や目線をむけられて、自分が自分を認識することで内観が生じる事から始まる。だが、この内観と外観を合わせて都度都度心や体が行為を行う度(例えば息を吸う度)、その内観と外観の思い込みを過去にしていくことで確信が未来への直感を都度都度育んでいく。そうしてそれぞれの点で行われている現象が自分が自分と認識される連続性として過去をフラクタル化しながら円、さらに球となっていく。自分が実像になる。

ここで話を市場価値に戻すが、そうなってくると外観から得られる要素を常に足しながら自分が作られていく以上「自分の市場価値」と言う表現は無限ループのような表現でイマイチ何を言っているのかわからなくなってくる。

市場と自分の関係で言えば、例えば当たり前の話になるが地球人が宇宙に出ていって、「自分の宇宙市場での価値はどの程度だろう」とは悩まない。例えばそのように関係のない分野に対して自分と市場を相対的に測定したりしないように、自分と少なくとも働くことの出来る範囲を指して「市場価値」という対象化をするような考え方をする。だからこそ、前述したような関係の深い普段の周辺を指して「市場価値」と表現する事がおかしくなる。その前提に立ってみると、市場が育てたのが自分なのだから 「自分の市場価値」とは、すなわち 「市場全体の大体の値段」という事が言える。

強引な理論に聞こえるかも知れないが、例えば平均的な話ができるように、一般労働市場という分野を同質異分野間で分析してみるとどうだろう。日本では新卒の給与は18-22万円前後と言われている。アフリカのタンザニアやギニア、バングラデシュでは同じ条件での給与は2-3万円前後と言われている。これは国際的競争力の差、と言えるが、ということは同時に市場そのものの価値と言える。

すなわち、日本人で生まれたある人間が学校を卒業して普通に働けるとしてもらえる約20万円は市場が守ってくれている20万円であり、本人が市場に対して付加価値を生み出した20万円ではない。あくまで作られた生産性であって、その人間が独自性を発揮して自ら作った価値の部分はその平均と定められた給与をはみ出して成果を会社なり世間に認められた上澄みの部分でないと 市場価値と言う表現は適さないはずである。

もし、その付加価値が適正に社会から守られるばかりでなく、付加価値を自ら生み出すことができていればそれは環境が多少変わっても例えばタンザニアでも生み出せる価値であるはずで、その場合その付加価値分はタンザニア給与の2万円に上乗せされるはずだ。そして、結果2万円+(付加価値)円になる。すなわち、国を悪く言ったりその在り方にただただ不平のみを述べて立てて自らが具体的に社会問題を良くするための行為や立案と実行をもって、幸福な人々を増やそうとするわけでもない行為なども、よくよく考えてもらえると、真の理不尽が誰なのかが分かると思う。

そうやっている間もインターネットを使い、洋服をきて、水を飲み、銀行から金を卸して、エアコンを使い公共設備や整備された道路の上を歩き、その活動の為の月収を廻して行っているわけだ。民間企業のサービスは国とは関係なのでは? と考えたとしたら、それは間違いであり、民間企業を作っているのは国の作った制度の上で生まれて戸籍を管理され教育や社会への参加がよいされて育った結果、国を支える産業に従事したか国ではカバーできない範囲を業態化した民間に就職したかの違いに過ぎない。

いわば消費活動を支えるために支給されたに過ぎない20万なのに、そのお金を使って生活をしている状態で非生産的な行いを長いこと行い、更にそれにも不満をいう。その行為でできることというのは、本質的に市場価値を下げるどころか、過去の遺産を腐らせて行く行為だ。そうではなくて、平均的所得というのは文句や価値をすり減らしていく活動のために使われるべきではなく、ましては貯金や欲にまみれた私心の消化の為の道具でもなく、付加価値の創造の糧にすべきであり、それ以外の方法を取らない限り我々は「市場価値」から、開放されない。

世界付加価値をプラスしていきたい。

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