芸術と純文学とマネジメントと面倒見スキル

芸術の秋。

絵画、音楽、文学、演劇…芸術を通じて観えるのはその作者が得ることのできたその時代の感性。その感性とは、識別や空気というフィルターを通過する前の物事を可視化する行為と言える。(=光として認識される状態になる以前を抽出することも含む)

例えば日本文化コアの一つ東山文化。戦乱の中での人の心の在りどころが量子的重なり合いをもって幽と玄の同時複眼的世界観を革新的に捉えた。足利義政による一連の取り組み。彼による引きこもりワークの集大成、東山文化。政治という観点が抜けていた彼だから人に見えない世界が見えていた。すなわち、実際の民間の人付き合いや文化の空気感、それらが到達した感覚であった。

物的なことと人物的なことのバリエーションが広げた2軸による実像。

作品が売れたものであればそれを求めた空気の多様性の度合い、作品にはそれらが絵面として表現される。

色彩やディテールの奥に感じるべきは、その目が見たかった本当の世間という表のような裏の世界。表と言う名の虚像と、それがある所以の底意の世界。それを感じられるからこそ、芸術鑑賞は価値ある時間の過ごし方となる。

例えばそれは現代、SNSや誰かとの話し合い、打ち合わせ、面接をしていても、相手を一つの人間作品として感じる事で応用が始まる。その捉え方を得る個人的なオススメとしては『純文学』の読書。その汲み取り力を持って、芸術作品の鑑賞であれば作家の伝記や文献といった背景を読み解いた上で当たる鑑賞に意味がでてくる。

何故ならこれをもって当たる芸術鑑賞と、そうでない芸術鑑賞は意味合いが全く違う。鑑賞の歳に必要となる美意識、その美意識の正体とは、

・その作品を見つめるという、興味の背景(歴史的状況理解の視点)のベクトルをトレースするのが一つの変数

・作家の個人的事情や心理など、奥行きへの理解深度をトレースするのが一つの変数

・観察者の知的探究心を知的生産性と見立てトレースするのが一つの変数

これらは、純文学を読み込める読解力でおおよそ得られる。これらの変数を何らかの定数で工程化する。

例えば、『変数合計値÷未来』を予感するインターフェイス…人間の5感+第6感、第7,8感でフィルタリングした抵抗値
※心の在り方が何よりも大切だが、複雑すぎるので割愛する。

これらを数値化できるともいえる。このような背景から現象への理解のちからには心理学が必要です!と一言でも言い切れない、そこには個人の歴史や短い直近の現象から経済事情などが絡む。我々は誰かになりきることが絶対にできない為、他者理解とは?を常に考える事その事自体が他者理解になる。

忘れてはならないのは芸術家は特別な人間ではなくて、感じていることや目に見えたことを共感性の高い成果として描くことに長けた同じ人間であるということ。芸術とは問いかけであり、その意味がわかるかどうかは問いかけ以前の現象の理解ができている人が対象となる。

我々が誰かの話を聞いてそこから何かを汲み取って次の出発へ向けてのなんらかしらのアクションを考える時も、同じである。すなわち日常対話の中で既に、面倒見は始まっており、マネジメントのちからを鍛えることは始まっている。誰かの悩みに解決を与えることとは、革新性をその対象者へ与える、ということである。

面倒見というチャレンジ、それは多様性と約束という二つの矛盾を調和させるという苦闘へのチャレンジともいえる。それは業務と日常の部屋の掃除をわけて考えてしまうと見えなくなってゆく。

実際は営みが換金されるかされないかという直接と間接の違いがあるが、結果的に快適に仕事をするために掃除をしているわけであり、掃除をして快適に過ごす為に収入が欲しいから仕事をしているといえるし、しかしながら仕事をするため、掃除をするために生きているわけではない、ともいえる。

これらの全ては量子的に全てが正解で並列で受け入れながら溶け合っている。だから、既に近所の子供とすれ違って挨拶をした瞬間から実は面倒見は始まっている。

業とはなんなのだろう?生き方と稼ぎ方を分けると何がいけないのだろう?
単純な制度だから個人的な日常には関係ないのでは?これらはよく考えてみる必要がある。どうせやることなら、自分と世界が良くなる軸と、関わり方のセンス=インターフェイスをしっかりと認識して

・業務遂行とイノベーション。2軸、2つの現象の視点の大切さ
・広い意味での面倒を伴う事(その面倒が、あらゆる継続力の源泉であること)
・共感とは実際に相手の立場に立つことではない。
相手の経験、ニーズ、理念をもとに、相手の目を通して物事を観る、ということ

全て網羅的に包括する力が必要なのだ。

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