父性と母性と対象性

木々の葉っぱは常識的には緑である。

だが色という存在そのものが光の反射なので、元々万物の色は透明(自由自在)である。そこに色素が(電荷と光子の相互作用によって)特定の光を食べて反射して、色となる。

そして葉っぱの場合は、地球に届く太陽光の中でも緑を発する反対色である赤、次いで青が、最も彼らの大好きな色である。

その為赤と青を食べ尽くしてしまっているから葉っぱが反射出来る”残りの色” は緑なのである。

光合成で100%依存して生きている植物が、赤と青という振動数を選ぶ理由は科学的に説明可能でグルコースの合成は600~700nm(赤)、葉緑体の生産は400~500nm(青) といった周波数の処理が、彼らにとって最もパフォーマンスを発揮できる為である。

食虫植物がその食事する部分(口とか)が赤くグロテスクに見えるのは、その部分は光合成による処理を余りしない場所なので 緑を食べて 赤になっている、ということで捉えられる。

※食虫植物に関しては予想でしかないが。

さて、父と母の話をこれに当てはめてみれば、なぜ相手に優しくするのか、厳しくするのか? そのように接したのか?

といった自分の本質、他社の本質の対人的表現。

それは、自分がそういった行為の反対の気持ちを ”充分食べたから” 行っている、行えている、と捉えるとすんなり理解出来るかも知れない。

自然法則の上で物事は動いてくのだが、どうしようもない自然な流れ、心の流れほど、自然法則の適応が顕著と考えていただければわかりやすいかも知れない。なぜなら、人間が人類史500万年間ひたすらに眺めてきた景色と食べてきた生物の作用がこの体に働いていないと考えるほうが不自然だからである。

この事を見えない事実に目を向けるという意味で、現実はあくまで現象であり、原因にとっては虚像の一部として考えることが出来る。

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