公園で人を眺めてみる

日本の子供達をみていると。大多数は幸福そうだ。

同時に、しかしどこかのタイミングからか、はみ出さない事に一生懸命調整しながら合わせる努力を頑張っているように見える。

その子の個性を引き出すことよりも、違和感を消す事を一生懸命やらされている気がする。それでも、決して悪い環境ではない。

環境から周辺の理解まで含めると日本の教育機関は世界最高峰であるのは間違いない。在るものに気づけず、ないものを求め始めている大人の心理が結局は子供が、自分達を活かす方法に気付けないから、海外を夢見るが、そもそも何もない中で努力を自らの足し算の外に求めた事の先で親の言葉を届けれない時にどうやってアドバイスしたらよい?

それの部分に関してはこの国の今の弱点でセキュリティホールであり、無責任だと思う。親子で引き継がれるフラクタルなのだから、親が充分勉強してその姿を善としていれば、自然に子供もそうなるし、逆ならやはりそうなる。

これは社員と雇用主でも基本原則は一緒である。

江戸時代後期、長州藩の民が代々勉強家で向上心に熱かった事とそこで醸成された「外を知る、よく学ぶ」という精神性が日本が今も独立して日本国である守りを作る基礎となった。

結果的に多くの明治政府への実権を持つ事になる人物を排出したのは、長州藩で産まれる子供達が、そのような親世代の背中から得られる当たり前の土壌から自己を醸成していたからだ。

学校は教育を全盲する場所ではなくて、友情の理解、他者の理解、実証、人脈やリファレンス、将来のリファーラルの場として活用すべき場所である。

そう考えると日本では親が自発発想の強い子供を育てる為に出来ること、それは、自らの言葉と感情を最初から伝え続ける事である。

子供はその心の構築の有る段階で「ここで幹を育てる」、という風に大体4歳の時点で決心(子供に自覚はないが、自然にセットアップが完了する)をする。勿論その時点で引き返しなどはできないし、物理的環境や知識や学習で得られるものはいくらでも変るけど、この方向でいくという方向性=コンピュータでいうと、使っていく言語や表示する言語、インストール可能なアプリといったスペックの方向性が決まる。

親が子育ての中でその時、スマフォで遊ばせて放置している間 それが自分に向けられた愛情ではない事くらいは直ぐに見抜く。見抜くというよりも、スマフォの中身が強烈なので先に感情を作る以前の脳の深い部分、大脳辺縁系が強制的に揺さぶられ書き換えられる。

これらスマフォコンテンツ的なものはインターフェイスの段階ではとても有用だが、OS構築の段階では無意味で害悪になりかねない。青虫が蛹になっていてこれから蝶になるための羽を一生懸命作っている最中に、その将来羽になる部分にインクを垂らすようなもの。

この世界というフォーマットを正しく理解させる段階では喜怒哀楽と沢山の種類の言葉と運動、ようするに生身の振る舞いに情緒がセットになった行為でのコミュニケーションが適切である。自分は独り身だから関係ない。そう思っても無駄だ。

サイクルの法則は、貴方が今いる流れの中での気持ち、立場、現実、関係ないと思っていた議論を自分の中の誰かに映し出す。当然子供がいない場合は自分の中の童心にそれが転写される。それは反転もするし肥大もする。だが消えることはない。

そしてその状況の所以を見つめ直し、繰り返しがやってくる事を予想する。自分に、誰かに、方向性の違う努力をさせているかもしれない事に気をつける。

雲と愛を連れて流れる事を思い出せるように 人間の全体像と世界のサイクルを理解する。

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