体で掴む 運知身

蹴鞠(けまり)。
思想を固定化する、思想で固まる事によるフレームワークありきの危うさを知っていた昔の日本人はその事を知っていたからこそ、今では世界でスタンダードになっているスポーツであるサッカーの原型をあみだしました。

敗者を設定しない、思いやりを競う。慮って相手が蹴り返しやすいように鞠を蹴り渡す、責任は双方向で分かち合う。という部分が特徴の鞠を蹴り合いする「蹴鞠」を生み出し、その蹴鞠がサッカーに進化して世界中でプレイされています。あれは日本初のスポーツなのです。ただ、抽出されたパーツが日本で生まれた思いやりの部分がなくなっているのが残念です。

世界で唯一、思いやりスポーツ。その喪失された思いやりはどこへ行ったのか?たとえばそのような蹴鞠の中に内包された教えとしては以下のような感じです。

自然哲学(神道)とのねじれを無常と弥生由来の思いやり、神武天皇から始まる八紘一宇で包み込む世界を一つに捉える観かた、思想以前のBIOSを作って行く作業を体で作っていく。それが日本の教えの中で体で理解する部分です。

宗教より深い為、多くの若者と会話をしていても日本は無宗教、もしくは仏教国だと思う…という答えが返ってきます。

テレビなどのインタビューでもそういう話が多いですね。テレビを持っていないので想像ですが。風の噂です。それは実感として把握できる思想がないからです。

例えば、“仏壇”というシステムは日本人は仏教の習慣だと思っているようですが仏教にあのような習慣はありません。海外の方に説明する際には気をつけましょう。あちらの習慣は中国や台湾由来の道教の習慣です。(まずひとつに、仏教というものは現在世界で宗教の枠のカウントからすると存在しないにちかく、しかしながら起業家の多くが仏教の中に潜む人間と無との関係へのアプローチ、その本質に気づいた事、瞑想を通じてそのフリーダム感、掛け持ちOK的な度量の大きさから、多くの仏教ファンを生み始めているは除いて、統計上の宗教人口としては一神教勢力が圧倒的で、消されていっています。具体的には指針の書の環境分析で記載します。)

しかしその実態はそもそも宗教以上に潜り込んでおり、その層での気づきに捉われなく構成に関わっている為、肝心の日本人本人からも得られない状態を作り出しています。

その更に2段階ほど深い層に練り込まれた思想以前のヌーメンと、それ以前の虚像を前提とした人類の勝手な約束が何なのか? を感じない事には、ようするにやはりまずは「8つの階層」を理解しないと、結局日本人の構成思想はなんなのか?を間違うのです。

日本の、もっというと日本が最もそう認識される中で強烈な力と物質性を凌駕する精神性は安っぽく「精神論」「気合い」とだけしか紐解けない、捉えられないようになってしまいます。これは、 当の日本人にもそのプロセスが説明できず個人のパーソナリティーに沈み込んでいた為、パーソナルと宗教が分離し、当然仕事上のロールも分離している海外勢とはカノンによる説明ができない(儒教やセム系やヒンドゥー教はこれをカノンで行います)事が最大の相違です。

心のプログラムと体ハードウェアが一体型なのが日本で、心プログラムと体ハードウェア綺麗にセパレートされているのが海外勢 というとわかりやすいかもしれません。この事と、例えば仏教周辺の話だけで言及すると中国由来の道教と儒教と土着信仰がくっついてやってきたことで、同時に仁や徳、義などがセット商品として哲学的に沈み込み結果としてその構成物質としての恩が表面化する、などの心の化学変化を絵画や文学の中から、紐解く以外に把握の仕様が無い事に由来します。当時の唐由来の哲学が仏教の一部のような格好で一体型となってはいっているということです。

そのことは大変幸福で有意義だと個人的には思っています。

全くのデタラメではなく、全て足跡を追える楽しみを絶妙に残してある事を含めここから先、日本人本人でないとできない分析の領域もあるのです。

ただ、この事実は日本人よりもアメリカ人の方が良く知っており、あちらの小学校の授業でも我々日本人を吸収把握、真の意味で攻略する為の精神構造解体研究は戦後よりずっとやっているようです。

私は祖父が零戦という軍関係の兵器設計と製造をやっていた事もあり(そこに現代人的にはありえない自然学や精神論が使われていたり)、子守唄がその鉄の学びであった事と、

更に曽祖父が当時の天皇陛下の思想である教育勅語を広く人民に伝え維持する為地域の責任者であった事と、武道家でもあったにも関わらず立場と血族の関係で徴兵されず特別任務が地元であった事。そのような彼らによる話を聞ける環境にありました。

戦争よりももっと大変だったのは、実はそれ以前の世界の厳しさというあまり注目されない世界の話を色濃くきいており、彼らは私にその時間をとにかく沢山作ってくれました。

まだ曽祖父が存命の頃、地元の学校の先生、遠くは京大を始め多くのアカデミックな学者が我が家を出入りしておりました。その意味を理解し様々な調査を行い、先代達の遺していった言葉や書物、家宝の鏡と刀などの意味が未だに解読が難しかった父からの手紙の意味が分かったのは本当に最近のことです。

それゆえに 友人との幼少期という思い出はほぼなく、毎日は農林水産業の手伝いをし、夜は彼らの講話を聞く。

殆ど保育所、幼稚園にも通っておりませんので これら明治から昭和の思想の個人への内包、沈み込みに対しての本能からの吸い上げ作業が通常の日本人より、実感として理解でき比較的容易です。

“思い出す”。

但し、当時は彼らからの一方的な洗脳、意味がわからない話、としか当時は感じませんでしたので、いかに楽しく、もっと自由な大人になるか、ということが当時の私のもっぱらの目標でしたが。その為自分の本能に刷り込まれた記憶までの思い出す壁が7枚(トラウマの数、とイメージ)あるとしてその扉を開け続ける作業として浴びるように酒を飲み続けたこの約20年間でした(幼少期に頭が戻れる、フレッシュな気持ちで色々とやれる、と思っていた)、どうやら酒では無理だという事に最近気づきましたので(2枚くらいの開門が限界)、基本的には酒を一旦休んで他の方法を取り入れました。

それの一つが瞑想であり、その他に朝の時速16キロでの全速力ダッシュなどです。半年ほど続けているので、少しは3枚目の開門ができている状態と思います。

個人的な話が長くなりましたが、話題のテーマを取り上げている根拠を伝えることは、文字数以上に奥行きが理解を深める助力となるため書かせていただきました。

さて、日本の授業では同盟国アメリカの歴史や思想や人間について学ばないのは何故でしょうか?

そこに疑問を持たないのは何故でしょう。

もっというと、義務教育は終わった我々が自主的にその事を学ばないという事は、誰かに言われたからでしょうか?

立場としての自分自身、地域、国、外国に対して。

それを知る為の不勉強が許容される罠には気をつけて生きましょう。

そのように知を強化しておくことで、体がより明確に働くようになります。

動作や行為、習慣と行った体の使い方のなかに、沈み込んだ考え方=廻し方が更に知を教えてくれる、という循環です。

そしてそのような育みの有る習慣を持ち、言語で説明ができるような人物は自然と魅力的となり俗に言う「あの人は運がよい(正確には宿命を知り、道を持っているので、適切な出会いや取得がある)」

という状態が生まれやすくなると言えます。

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