野球スコアブックアプリ誕生秘話 第5話「エンジニアH ~野球スコアブックのアプリ構想完成」

「野球スコアブックのアプリ開発」の上で欠かす事のできない人物がいた。

エンジニアのH。彼の事に触れなければならない。

 

これを読むあなたには、この先に起こるエンジニアHとの別れの結末を知っている。

そして、この当時の私は当然知るはずもない。

 

今でも彼には感謝している。

 

エンジニアHとの出会いは、前話で登場した三軒茶屋の会社の先輩社員で、

年齢は私より2つ上。体格はガッチリ大柄で、地頭が良く、プライドの高い男だった。

Hは、三軒茶屋の会社を先に退職し、別の制作会社でデザイナー兼エンジニアとして転職していた。

 

私は、その2年後に退職してフリーランスとして独立を果たす。

 

結局、バンドメンバーはどうなったのか?というと、上京後、半年後には解散…という寒い状況に終わる。

ギターボーカルFは地元大分に帰る等、皆方々散り散りに離れていった。

「東京で一旗揚げる」と思ったのも、束の間で、何をしに上京したのだろうか?という働きながら自問自答する東京の日々だった…。

独立の理由は、音楽をやる為に東京に出てきたのに、音楽に重きを置けていない。そんな自分自身の感情を顧みて、作曲活動を仕事にしたいと思ったからだ。

 

 

それからしばらくは、webの運営業務と、音楽制作の案件とを上手く並行してこなしながら、

三軒茶屋の会社からの仕事も請負いながら、音楽の音源制作の仕事を受注しながら何とか個人事業として一人でやってきた。

 

その間、会社員のH、個人事業主の私と別の道を歩みながらも、前職で仕事を通じて気が合った事から

定期的に飲みに行ったり、様々な相談をし合ったりしていた。

Hは、元々サラリーマン同士の頃から、IT技術への飽くなき探究心とビジネスへの応用アイディアを多く語りあっていたので、そんな話がもっと具体的になって表面化してきたような感じだ。

 

そして、あるタイミングでHも私に触発されたのか?独立宣言をする。

その宣言の流れの中で、一緒に仕事をやろうというお互いの意思確認とも言えない、阿吽の呼吸というか、その場の空気でなんとなく「チームを作る」的な事が決まった事を覚えている。

 

当時、Hが様々なベンチャーが成長している記事などを指さして

「同じくらいの年代の連中がこんな風に上手くいっているだから、俺らでも全然出来るよ。逆に出来ないとおかしくないか?」と

H特有の鼻っ柱の強い根拠のない自信に、私は笑いながら

「やってみますか!」と返答するのが、お約束になっていた。

 

そこから、それぞれが個人事業主として事業を回している状況が半年~1年経過後、

屋号を作り、二人でグループとして仕事を回す事になる。

 

その屋号(ここでは仮にチームズという名前にする)の目的は、制作スキルの秀でたフリーランス集合体にて、

仕事をこなす…というものだ。

チームズでは、大学関係からメーカー関係、広告代理店などから案件を頂き、実務としては音、映像、紙媒体、web、コピーライティング、写真素材提供などもやったりした。

とにかく生きる為に貪欲に取り組んだ。

 

そんな動きの中で、野球スコアブックアプリに関わるもう一人の重要人物と会う。

大学の先輩の紹介で、アプリ開発実績のある優秀なアプリエンジニアT。

 

当時、世の中は、iPadが発売され、スティーブ・ジョブズとApple社の偉業に沸いていた。

iPhone、iPad用のアプリを作り出せれば、ビジネスチャンスは拡がる可能性を感じていた。これに乗っからない手はないと。

そんな中で、運命に導かれたのか?と思いこんでしまう程幸運にもアプリ開発に必要なピースが揃ったのだ。

Tは、私と地元が近かったり、同い年だったり、何かと共通の話題も多く、なんとなく盛り上がれる距離感から話がはずみ、私のイメージしているアプリをどう作るか? 会話の中から具体的な手法や問題の解決法の提案の速さが有り、何より実績が素晴らしかった。

アプリ開発はT。webやサーバ関連はH。企画、ディレクション、営業は私と役者が勢揃い。

さて…、問題は何を作ろうか?

iPhone、iPadでやりたい、ということだけは漠然と決まっていた。

ジョブズが考えて作ったあの素晴らしい作品と共演したいと考えた。

様々なアイディアが頭の中を駆け巡り、作っては、キーノートに打ち込み、TとHにプレゼンとブレインストーミングの日々が続く。

 

ただ、実際に考えをまとめて計画を立ててみると、自分たちの持ち出しでやれる範囲の企画は限られてくる…。

やはり先立つもの…。お金が必要だ。

シリコンバレーの様々なスタートアップ、国内のベンダーから、新サービス新製品の情報を得ては、形になるものを作れていない自分に焦る。

お金を集める企画内容でないと、実際に走らせる事ができない。

考える力、人材を集める力とはまた別で 資本を集める力が必要だった。

今度は、資金調達について勉強を少しずつ始める。

 

ところで、何故あれだけの音楽への情熱がIT開発の分野へ移ろいだしたのか?
疑問に思われるかもしれない。

 

ひっそりと私の中で起きた最大の化学変化は、音楽活動に求めていた価値=表現をしたい、自分を開放したいということも事実あったが、描いたビジョンや流れに他人が呼吸を併せてきて、一つの何かを作り上げる事、それをやれる仲間との出会いが、一人で作曲をする面白さを上回り始めた事だ。

すなわち、バンドと言う形式で仲間と活動が続いていたら、満たされていたはずの創作し融合しそれを発表する事で得られる“いつまでも上昇気流にいるような幸福感” が満たされていて、こんな流れは生まれなかったと思う。

偉人たちとの対話で自己の掘り下げも必要以上に深かった私は、その変化と、その理由をしっかり感じ取っていた。

だからこそ、この変化の意味に興味津々だった。

そんな中、以前勤めていた会社の人脈の一人である先輩経営者Sさんから金言を頂く事になる。

「野球のスコアブックをiPadで管理とか、入力とかできないの?」と。

 

聞いた瞬間に直感で「それだ!」と思い、企画を考えた。

お金の出処もアテがありそうな話しが、シンクロニシティの様に同時に発生した。
その判断こそが野球スコアブックのアプリ誕生のきっかけになったのは言うまでもない。

 

たが、この後、想像を絶する苦労を体験する事になるのだった…。

〈この続きはまた次回の投稿で〉

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